進捗雑記

ちょっと前まで時代もの(江戸時代の庶民の話)を読んでいて、今は打って変わって現代もの(推しという言葉が出てくる)を読んでいるのですが、そうすると「時代性=現代性と普遍性」についてぽつぽつ考えてしまいます。

多分私が現代ものを好んでいるのは時代性、すなわち今の時代における人々や自分自身の、気持ちや考え方を代弁するような話を見つけたい、読みたいと言う気持ちがあるのかな?と思います。
一方で時代ものに求めているのは圧倒的な普遍性なのかな。もはや「どこかの地方の昔話だよねこれ」と思えるレベルの強度の高い普遍的な物語を読みたいのかもしれない。そんなレベルのものを描けるのはやっぱり一定以上の技術の持ち主だろうから、自然とハイレベルなものを読めて幸せです。

普遍性というと、徹底的に時代性を排したショートショートを書いた星新一のことを思い出します。あれは初めて読んだ時ものすごく新しさを感じたんですよね…自分が生まれる前に書かれた話だったのに…。ああいうふうに、書かれた時代を感じさせない物語にするのも戦略の一つなんだろうな。

時代性全振りの話は今この瞬間に読むのが楽しくて、ある程度時間が経ったらその時代を振り返りながら楽しめます。だから時代性と普遍性についてはある程度両方備えた物語が普通なのかなと思うけど、正直普遍性一辺倒で面白い話が書けたらもう向かう所敵なしなのでは?という気もします…。常人には到達できない域かもしれないけど。

それと、あまり関係ないけど北村薫(日常の謎ジャンルをつくったミステリ作家)の「物語が書かれるのは人生が一度きりであることへの抗議である」みたいな発言(うろ覚え)について、確かに読む側としてもそういう部分はあるけど、どちらかというと私は「全然違う人(作中人物)の視点に立って知らない世界を見てみたい」とか「作者がどう言う視点で世界を見ているのか知りたい」とか、そっちの方が強いかもしれません。話を読むことによって作者のことを知りたい気持ちが結構大きいのかも。